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青聿書房 Aofude Shobo

神原だったり片倉だったりする奴のあれこれ。青聿書房はサークル名。

漫画|少女終末旅行②をベタ褒めする

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漫画|少女終末旅行②をベタ褒めする

タイトルの通り、少女終末旅行②を個人的にベタ褒めする。
実は一昨日にも読んでいたのだけど、
本日の出張で新幹線に乗っているとき、読み返す最中に気づき、感動した。



さて、言及するのは「13 雨音」というエピソード。
詳しい経緯を書いてしまうと、初めて読んだときの感動が半減してしまうので書かない。
以下のようなやりとりがあるのだ。


 チト「もしかすると…これは音楽って奴かもしれない」
ユーリ「音楽」
 チト「音の高低とリズムがあって それが連なるものらしい」


このセリフがどれだけ僕の怖気をふるったことか。
おかげさまで、僕はこの作品がとても好きになった。

少女終末旅行は、崩壊した積層都市の中を、
チトとユーリという二人の少女がケッテンクラートに乗り、食料を求めてさまよう話だ。
けれど、崩壊したのは文明だけではなかった。
「音楽って奴かもしれない」
というセリフが表すように、文化もまた衰退してしまっていた。

唐突だが、僕は音楽が大好きだ。
作曲もできなければ楽器も演奏できない聞き専だが、大好きだ。
小説を書くとき以外は常に聞いていたいくらいだ。
音楽は最初の『文化』だと信じてさえいる。
きっと鼻歌から『文化』は始まったと考えている。

話を少女終末旅行に戻そう。
人がいなくなるということは、社会が消失するということは、
退廃的ということは、終末ということは、つまり音楽が失われるということなのだ。

終末ものの作品は世に溢れかえっているけれど、
あらゆる文化が消えて失われる、
ということを明示しているこの作品は異彩を放っているように思う。

なにせ、たいていの作品の場合、世界が終わっても、音楽はある。歌がある。
どんなに貧しくても、極限の状況でも、人間は歌を歌うものだ。
戦場の兵士は行軍歌を歌う。
スラムの母は子守歌を歌う。
銀河ネットワークではクジラが歌を歌う。
世界にたった一人生き残った男が叫んだら、それはロックンロールだ。

けれど、少女終末旅行にはそれがない。
二人の少女、チトとユーリは、ただ生きている。
平温の砂漠を行くようなものだ。
存在するだけで死を覚悟するほど過酷な世界ではないけれど、
モノクロームな、乾いた灰のように退廃した世界だ。
音楽という彩りがないのだ。

一方、二人が旅程で出会う人は、荒廃した世界にあって、
何かしら行動せずにはいられない人たちだ。
地図を作ったり、飛行機を作ったり、している。
二人の少女はそれらを少し手伝ったりするけれど、
特別に貢献したりはしない。
チトとユーリは、ただ、生きている。
音楽や、歌のひとつもなしに。

というわけで、少女終末旅行は、ゆっくりと読み解いていくと、凄く良い。
二人の生き方を的確に表した言葉を引用して、
ベタ褒めを締めくくることにする。

ユーリ「絶望と仲良くする」



以下、蛇足。
個人的にベタ褒め、と表現した理由について書いておく。
これは、そもそも読書という行為の結果は
あくまで個人的な体験であるという僕の自覚に基づく。

だったらチラシの裏にでも書いておけと言う話なのだが、
なぜあえて個人的な体験を他人に喧伝するような記事を書くのかというと、
好きな作家が書いている作品の続きを読むためには、
新刊で単行本を買い、他人に勧めて買わせ、
出版社が続刊にGOサインを出さなきゃならねえからである。

というわけでみんな、少女終末旅行を買うんだ。
できれば新刊でな!


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プロファイル

近影
姓名:片倉青一
生業:文筆
信仰:自由意思教
連絡:KtkrAo1[at]gmail.com

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